神仏との出会い

## 達磨さんは、洗随経で、直接的に脊髄の、

その中の随を洗ってキレイにしていこうと思ったのか、

それとも私が清昇濁降の中で行っている、無形の中脈に三元を通すことによって、

その波及効果として、脊髄をキレイにしていこうとしたのか、どちらですか?

私が座り続けて修練をしたときに、尻が痛くなって、足も痛くなった。

座り続けて修練を続けるには、尻も足も痛くないようにしたい。

その時に、まず骨を緩めた。

ところが、骨だけでは緩まないので、さらに筋肉を緩めた。

それらのことを、順に二つに分けただけのことで、元は一つのことです。

痛かったので骨を緩めた。

しかし骨だけを緩めても、筋肉が緩まないと骨も緩まない。 

筋肉を緩めるためには、気の巡りが良くないと、血の巡りも良くならない。

そうした経過で、発見されたことに過ぎません。

あなた方が、中脈に着目していることは、元極功法の特徴的なことであって、

極めてすばらしいと思います。

しかし、私は当時そのことに気がつきませんでした。

(増田の考え)洗随とは、背骨の中を通っている随をキレイにして、

骨の動きを良くしようと考えた名前だったのであろう。




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神仏との出会い

## 易筋経を清昇濁降に作用させたとき、効能はどうなるのか?

増田はもう既に受け取っていて判っているから、

私が細川に答えると、細川が受け取る言葉はとんでもない幼稚な表現になるので、

あえて詳しくは伝えません。

(通常、神に問いかけるのは増田、その回答を受け取り聞くのは細川が担当しています。

細川が受け取り不能の時のみ、増田が受け取ります。)

ひとつは、ゆるくなる。

骨を通じて、骨の関節と関節を通じて、身体の動きが柔らかくなり、ゆるくなります。

これは清昇濁降の作用と、あなたが別に開発した免疫の功法との相乗効果が、

関節をゆるくする点で期待できると思います。

しかし、脊髄はとても動きにくい。

もちろん内臓の影響も受けてはいますから無理からぬこともありますが、動きにくいところなのです。

この脊髄は立ち姿の土台として、よりよい形態にする為、

修練を繰り返して動かす功法なので、貴男の意図しているところも、

より緩めることで、もっと期待できる結果が生まれることになります。

洗随経をしても関節は柔らかくなる、易筋経を加えて、さらに柔らかくなる。

まあ、こうした事ですから、これらは相乗効果があります。

別々に経が存在してはいますが、どちらも身体の柔らかさを作っているのです。

身体の関節部分の可動域を拡げています。

それが、身体の免疫力も強化することに繋がっています。

座っていて少しも動かさないのだけれども、身体の動きも内面も鍛えていく経なのです。

別々でありながら、ひとつの目的に達するものです。


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神仏との出会い

これらは、動作を伴うものではありません。

動作を伴うがごとく気が巡るということを教えたのですが、伝わりませんでした。

動作があるというのは、全くの間違いです。

動作があるが如く、気が巡る訳です。

動きがあるようにして気が巡るのが、易筋経の真髄です。

あなたの功法の中に入れてください。按摩功の中に入れてはどうですか?

身体の中に気が巡り続ける。

手をあてた部分のみならず、気が響き渡り、

気が巡り続ける按摩にしてはどうでしょう? 

易筋経ほど、難しいことはありません。

しかし、あなたの功法では可能です。

どのようにでも使ってください。

真髄を貴男にお渡しします。

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神仏との出会い

易筋経とは

座ったままにして筋肉を緩める、座ったままにして骨を緩める、それが私の二つの方法です。

座りながらにして疲れを知らず、座りながらにして安静にしていて運動するがごとしの状況を、

必然性の中で考えついて発見しただけのことです。

腰が痛くなり、筋肉が固くなり、じっとしていては何時も何か物足りない。

身体を動かして運動したい衝動に駆られます。

しかし、動いては、精神の修行ができません。精神の統一が乱れます。

そうではなくて、座って姿勢を正したまま、安らかに座り続けるためには、

骨を緩め、筋肉を緩め、筋肉に気を巡らせ、身体の隅々まで気を届ける。

そういうことへの私なりの回答が、この易筋経です。

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神仏との出会い

## 洗随経の右回りと、左回りについて、教えてください。

右回りは下がる、左回りは昇る。

あなたの創った「清昇濁降」では、降りて昇るので、

この二つ共、それに応用してください。

大きな骨・脊髄に沿って、気のエネルギーが渦巻きのように上下します。

それは、あなたの功法の中では、骨を意識していますが、

骨そのもののところを三元エネルギーが渦巻き状に上下するということが加わりますと、

これは脊髄を整形して、ほどよい間隔を保ち、正しい位置に訂正され、

本来の位置関係に形成されていきます。 

そこに溜まった垢、汚れ、邪気を排泄することが可能です。

日之本の功法を変えずとも、この功法の中に、私の技法を取り入れることは可能です。

あなたは、この功法の中に設計図を書き入れてください。

動作も 内容も変える必要はありません。

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神仏との出会い

私には、無形の形で与えてくださったのですが、
その極意の訣を教えてくださいますか?

それは既に叶っているので、必要がありません。

それは、とっくに貴男は会得しているではありませんか。

功訣というのは、それほど難しいものではありません。 

「座っていても、身体の筋肉に気が満ちる。」

というように、思えばいいのです。

「座っていても 身体の骨に気が満ちて、巡っていく。」

と、思えば良いのです。

それほど、難しいものではありません。

それが、功訣なわけです。

特別な秘法など、何も存在しません。

貴男が、功法の功訣の中に、いつも書いているように、

思いを言葉にすれば、それで叶います。

あなたは、既に会得しているので、早々に私は姿を消します。

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神仏との出会い

## 達磨に うかがいます。

洗随経や易筋経というのは、動功ではなく、お経か、

または訣のようなものでなかったのかと私は思ったのですが、

それを弟子に渡したのではないですか?

私が座り続けて修行をして、座り続けるためには、

こうすれば座り続けることが出来ますよという極意を、

洗随経や易筋経として弟子に渡したのです。

なにも動功としての洗随経や易筋経、

動く方法(八段錦や武術)を渡したのではありません。

座ったままで出来る極意を渡したにもかかわらず、

皆の者たちはそれが出来なかったのです。

身体を動かして、そのことを可能にするしか方法を見つけられなかったのです。

私は座ったままで喜んでそれが出来たのに、

彼等は、そのことを座りながらできなかったので、

実際に可能にするには身体を激しく動かすしか方法を見つけられなかったのです。

私は、その方法について黙認しました。

それはそれで、渡された者たちが方法を見つけるしかありません。

私は、自分の修行のために開発したに過ぎませんでした。

私は自分の身体を持って、喜びの気持ちで経を創ったのです。

それで、皆の者に拡がるのであれば、

私だけの功法であってはいけないと思っているので、これを黙認しました。

しかし、身体を動かしたところで、

洗随経や易筋経は叶うことはありませんでした。


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神仏との出会い

## 9次元におられる達磨さんに伺います。

少林寺拳法をだるまさんが、伝えたのですか?

また、達磨さんが弟子に教えたという易筋経や洗随経は、

その通り弟子達に伝えられたのですか?

それは、もちろん伝えたのですが、現代には伝わっていません。

伝えたことを出来るものが居なかったからです。陰も形も有りません。

私は、ひたすら座っていただけです。

ただただ、座っていました。

決して、武術を教えたわけではありません。

しかし、座ったままでも出来る、易筋経や洗随経を教えたのです。

それが、武術に変わりました。

つまりは、座ったままで、それが出来る者がいなかったので、

身体を動かして、それらを受け取るしか、彼等には道がなかったのです。

わたしは、武術を教えたわけではありません。

それは大きな間違いです。

それが伝説です。

私は仏教を学び、仏教で得た安らぎのための、座って修練をする原則を守っていました。

私は、ただただ、ひたすら座り続けて修練をしたのです。

その姿はひたすら美しい。あまりにも美しいということ。

皆が出来ないことを私だけが出来たということも、いとも容易く伝わっていますが、

座っていても気がめぐる、その極意は伝わらなかったので、武術になってしまったのです。

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神仏との出会い

少林寺拳法の舞台をみて
## 少林寺拳法のショーが始まると、下丹田、下黄庭にエネルギーが 充ち満ちてきました。

ショーの公演中は、其の昔の少林寺のエネルギーをあなた方にお届けします。

今から見るのはショーですから、あなた方には昔の健闘していた僧侶たちのエネルギーを届けます。

このエネルギーがなければ、この少林寺の拳法は成り立たないのです。

現在では、ただただ形だけの真似事です。

拳法どころでは無くなっています。決して形が大事ではありません。

右手を使った拳法です。

右手から放たれる気のエネルギーを、左手を通じて全身に巡るような動きになっています。

右手で受け取って、左手に流す、そして全身に巡らせるのです。

両足からも、百会からも、天地のエネルギーを受け取りつつ、

右手で受け取って、左手で放つことが起きています。

その時に、同じくして下丹田、下黄庭にエネルギーが聚積されるのです。

受け取ったエネルギーを、自分の気で倍増させて相手に放つ。

その気のエネルギーの威力で相手を倒す。自分を防御する。

その気のエネルギーの鋭さによって相手を倒すので、接触しなくても倒せるわけです。

無形の気のエネルギーのやり取りによる拳法であったわけですが、

それが出来なくなったので、武器や身体を激しく動かす武道に変化してしまいました。

右半身と左半身が別々に動く。

そして、対角線上に気が動きます。

演舞は撮影禁止でした

登り道を振り返る

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神仏との出会い

中でも、慧可(けいか)が左腕を切り落としたというのは、全くの出鱈目です。

少林寺では、両手を合わせることなく、右手のみを胸の前に出し、拝みます。

少林寺の拳法というのは、右手から気を受け入れて、左手から流します。

ですから左手は、常に補助的な動き、役割をします。

そういう意味で、視覚的に左手は無いも同然、あまり動きもしない。

そうした形が、そのような伝説を作ったのでしょう。

私が「赤い雪を降らせよ。」と言ったことはありません。

無理難題を言って、難行苦行をさせたことは事実です。

ただし私自身は、自らも座り続けて、楽しんで修行をしたので、

それが苦行だとは思えなかったのです。

元極功法は、仏教が伝わってきて、仏教と道教の粋を集めた功法になりました。

私の修行が、あなたがたの功法に役立って、

今後の終末の時に花開くことを、無情の喜びに思っています。

あなた方が終末の時に活躍するので、私が9次元に存在できるわけです。

感謝しています。

あなたの功法に、私の創った経(きょう)を使っていただけることは、

誠に嬉しいことです。

日之本元極の中に、生かして入れてください。


あの遙か上まで行かねばなりません。


まだまだ遠い


真冬なのに汗だくです。


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