お知らせ

張先生がご自分で病気を造られたのには理由が二つあります。

1.現在の体制内では、元極功法を普及することが出来ないこと

  元極の掌門人は、神上がることが約束されています。上の次元からは、
  自在にこの三次元物質世界に貢献することが可能です。
  よって制約があり、貢献出来ない世界に留まることより、神上がることを選択されました。

2.自分の病気を、自分で治せないことを見せることで、次世代に力を渡したご自分には、
  もう力がないんだよということをお示しになりました(実際には力があるにも関わらず・・・)。

昨年の夏頃から「中国の墓に行きなさい」と何回も言われていました。
それが年末になって、具体的に湖南省張家界に来なさい。」と呼ばれたのです。
まさか、張先生のだじゃれじゃあるまいし・・・・
(つづく)

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お知らせ

ずっと公表することを控えておりましたが、
その理由と共に公表することを許されましたのでお伝えいたします。

昨年(2011年)12月3日に、張志祥先生がお亡くなりになりました。

そして、それからひと月もしない、年も押し詰まった頃、
先々代の張先生のお母様も97歳で寂滅なさいました。

360年生きると言われる元極の掌門人が、次々とお亡くなりになることは、
おかしいじゃないかとお思いの方々もいらっしゃることでしょう。


でも、これは予定されていたことでした。我々には約1年半前から
「張には、もうあまり時間が残されていません。」
と知らされていました。

張先生は、肺癌でお亡くなりになりました。
多くの他人の癌を治してきた先生が、ご自分の癌を治せないわけがありません。

実はこの癌は、ご自分でお作りになりました。
無くせる者が、それを造ることは他愛もないことです。
しかし、何故でしょう。(つづく)

お知らせ

「階み」の理論編の中で、世界中で、完璧な歩き方の出来る六人に上げてあった中村芝翫さんがお亡くなりになりました。

数少ない、伝統を伝えられる人がまた一人いなくなって、残念です。

長く生きることで役割を果たす方もいらっしゃれば、立派な業績を残された方であっても、あっけなく短い生涯を遂げる方もいらっしゃいます。

神々は、肉体を持って生きることを単なる上昇のための期間としか捉えていません。

早々と亡くなっても、神上がることが出来れば目出度いことなのです。

ご自分が、ご自分の役割をしっかりと果たせているか一緒に見直してみましょう。

 2000年8月 中村芝翫さんをはじめ、3世代がそろった会見。(前列左から)児太郎、宗生を抱いた中村芝翫さん、国生(後列左から)福助、橋之助
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 2000年8月 中村芝翫さんをはじめ、3世代がそろった会見。(前列左から)児太郎、宗生を抱いた中村芝翫さん、国生(後列左から)福助、橋之助

古風で端正な女形として知られた歌舞伎の人間国宝で、文化功労者の中村芝翫(なかむら・しかん、本名中村栄次郎=なかむら・えいじろう)さんが10日午前
0時50分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。83歳だった。5歳で中村児太郎を名乗り初舞台を踏み、67年七代目芝翫を襲名。6年前に肝臓がんが
発覚し、病と闘ってきた。最期は長男の福助(50)、次女の夫・勘三郎(56)、孫の児太郎(17)らが見守る中、天国へと旅だった。同日夜には都内の自
宅で仮通夜が営まれ、約150人が弔問に訪れた。

 歌舞伎界を支えた名女形が逝った。

名古屋・御園座で公演中の長男・福助は、公演を終え、亡くなる直前の10日午前0時近くになって東京都内の病院に到着。10分ほど会話を交わした。福助の
長男・児太郎は「父を待っていたかのようでした。神様って優しいなと思いました」と最期の父子の対面を振り返った。福助や勘三郎、長女、勘三郎の妻・好江
さん、児太郎ら孫、ひ孫らも看取(みと)った。次男・橋之助(46)は京都での公演のため看取ることはできなかったが、妻で女優の三田寛子(45)が携帯
電話を芝翫さんの耳元にかざし、最後の会話をした。

2005年、芝翫さんに肝臓がんが発覚。本人への告知はされないまま、抗がん治療が施された。うすうす気付いていた様子も見受けられる中、舞台に上がり続
けた。今年1月の「新春大歌舞伎」を途中降板したが、8月の「花形大歌舞伎」は最後まで務め上げた。9月1日に出演した「秀山祭九月大歌舞伎」(新橋演舞
場)が最後の舞台となった。

 出演後、すぐに入院。何度か病状は悪化したものの、一時は退院できるのではと思えるほどの回復ぶりだった。

大の競馬好きでも知られる芝翫さんは、先日、入院中に100円で買った馬券が最後は80万円になったという。勘三郎が「『お前たちには3000円しかやら
ない』と言われて、みんなで『ケチだ』って笑っていたんですよ」と明かした。病気の回復を願って、子や孫たちが千羽鶴ならぬ、馬の折り紙を折っていたとい
う。

 生前、芝翫さんは棺に「花なんか入れてくれるな。入れたらばけて出るぞ」と話していたそうで、その言葉通り、これまで折ってきた2千数百個にもなった馬の折り紙を入れる予定だ。

 初舞台を踏んだ5歳で父・五代目中村福助を亡くし、孤独とも言える環境で生きてきた芝翫さんだが、最期は大勢の家族に見守られて安らかな眠りについた。