日之本元極の源流(6)―5

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その5)

 (4) 陶弘景の創立した茅山宗
 陶弘景(456~536年)は、字を通明といい、丹陽秣陵(今の江蘇省南京)の人で、士族詩書の家に生まれた。若いときから道術を好み、孫游岳に師事した。官吏などの職務は得意ではなかったので句曲山(今の江蘇省茅山)に隠れ住み、自ら華陽隠居と号し、弟子を率いて華陽館を建てた。王朝が斉から梁に交代した時、陶弘景は弟子を派遣して蕭衍を助け、図讖を推薦して国号を選定した。絶えず梁の武帝蕭衍と文章をやり取りしていたので、当時の人々は彼を「山中宰相」と呼んだ。朝廷の王侯公卿といった名士の中でも徐勉・江淹・沈約・蕭子雲といった多くの人が陶弘景の門下に入り、一時期非常に名声を博した。陶弘景は多才多芸で、天文・歴算・医薬・金丹・経学・地理・博物・文学芸術に精通し、80種余りを著述した。その中で現存している《真誥》・《登真隠訣》・《真霊位業図》・《養生延命録》・《本草集注》・《補闕肘後百一方》・《華陽陶隠居集》などは、どれも道教史や科学技術史にとって重要な著作である。陶弘景は茅山に45年間隠居し、門弟も多かったが、81歳で世を去った。おくりなは貞白先生である。

 陶弘景が道教の歴史において最も大きく貢献をしたことは、上清の経を伝承し茅山宗を創立したことである。彼が著した《真誥》は、顧歓の《真跡経》をもとに楊羲・許謐の伝える上清の秘訣を整理したものである。これは上清派の歴史・方術・教義を記述した重要な著作である。《登真隠訣》は《上清経》の符・存思・内視・導引・服気といったさまざまな昇仙の法を記述している。茅山は、漢代には三茅真君(茅盈・茅固・茅衷)が仙道を修行したことで有名になり、六朝時代には神仙道教の聖地になった。陶弘景は弟子を率い、七年の年月をかけて堤防を修理し田畑を開墾して茅山を切り開き、道館を建設して上清派の道教教団を設立した。これによって茅山宗は上清派の中心になり、南北朝から隋・唐に至るまで、茅山派からは有力な人が出て、道教史に大きな影響を与えた。茅山上清派は基本的には知識人によって組織された道教教団で、個人の文化修養や経典の研修を重視した。その道士の多くは詩を作ったり書道に励み、文才があった。茅山上清派は経派道教の中で最も優れたものに属し、有名な道士が比較的多く出た。

 陶弘景は博学多才で、詩詞文章・棋琴書画・養生医薬・金丹冶煉・卜筮占候などで精通していないものは一つもなかった。彼の《養生延命録》は道教養生学の養神・煉形・行気・房中術など多くの方法を総括している。医薬学では薬物の品種(玉石・草木・虫獣・果・菜・米・実など)による分類方法を考え出し、道教医薬学の体系を充実させた。特に、彼は葛洪の後を継いで金丹派道教も発展させ、硝石(KNO3)の炎による鑑別方法を提案している。

 陶弘景は《真霊位業図》を著して道教の神仙の体系も整理し、元始天尊を頂点とする神仙の階級序列を確立した。道教の最高神(元始天尊)の確定と神仙の系譜の階級による序列は、道教が封建の階級制度を擁護する必然性を反映したもので、道教の神学が成熟した印である。南朝の道教は、陸修静や陶弘景の改革によって内容的にも形式的にも成熟し、教会式の宮観道教へ変化した。

漢代に茅山で仙道を修行し、神仙に成ったといわれる。のち、晋代に彼らを含む神仙たちが霊媒師の楊羲に降ったことから茅山派が始まったといわれる。

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