ピカソ 再び (1)

肉体を失ってから、神として存在する「ピカソの顕在意識」から、自らの絵画、芸術観などを、更に詳しくお話しいただきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は生前、人として勝手気ままな生き方をしたのにも関わらず、こうして神の存在となり得たのは、芸術を通して無形のエネルギーのやりとりや、人の意識は一つではないことを多くの人々に暗示することが出来たからです。神になれる基準というものは、人が考えているものとは大きく異なります。

神と言えど、絵画を担当する神の中では、端くれのようなモノです。この世界には、もっと大家がいらっしゃいます。結果として、私があなた方の道案内をした光栄に感謝しています。

私の描いた絵の顔の表情の左右が、違っていることに気がついていると思います。右をみているのは、写実的な世の中の光をみています。
左目は、世の中には、隠されている他の意識の人となりの存在です。

全ての時代を通じて、感性を優先させて描いていたのではありません。感性を優先させて、感性のままに描いていたのは、晩年です。全ての事柄を手に入れて、技術的にも名声も手に入れたときに、感性で描くという衝動を手にしました。

衝動のままに書くことを許された条件がかなった時に、それが出来るようになるのです。やりたいことが思いのままに出来るということは、それが許される条件がなければ、実現しません。

感性を感性として、衝動的なモノをそのままに表せるほどの条件が揃っていなければ、そのことは可能にならないということです。人は、人となりとしての仮面をかぶると、人となりの一部を被い隠すことができて、仮面の形相と化することを可能にします。

仮面の形相、それは、そのものの核心的な一部分であり、人となりの本質に迫る意識の構成部分です。仮面の形相を表すことを無意識に求めていて、顕わにすることを望んでいるのです。仮面は、まさしく、私の形相を表に出すこと、私自身の内なるモノを表面に表現する役割を果たしました。

人の内面、意識には、二つの意識(それ以上かも知れない)が存在していると感じていました。人の持ち味の中に、二つの意識が同時に存在し、その人の形相にそれが醸し出されています。その様相を直感的にカンバスに表したのです。晩年の作品にこそ、それらがより如実に表されています。人の意識は、同時に、行うこととは違う別のことをみています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(続く)

今、国内三カ所でピカソの展覧会を開催しています。いずこも会期明日までです。
巨匠ピカソ愛と創造の奇跡   国立新美術館    ~12/14
巨匠ピカソ魂のポートレート  サントリー美術館  ~12/14
ピカソとクレーの生きた時代展 名古屋市美術館   ~12/14


写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。 ピカソ 「泣く女 1937.10月」

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 泣く女

ピカソ 「泣く女 1937.7月」
潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ピカソ 気功 泣く女