日之本元極功法

武内宿禰(たけのうちのすくね)は、なぜ300年以上も生きたのか―2

宿禰の神は続けて私を諭します。

神々の導きに対しては、その時々、不満に思ったことも多々ありましたけれども、私はそうせざるをえないような運命を背負って生きてきました。人の考え及ぶ短い期間での道理や、狭い了見では不合理に思ってしまうような導きも多くあります。永く、広い、大きな流れの中での、たった一つずつの導きですから、不承不承でも従って行動することです。

それについては、あなた方もおなじでしょう。その指示に従わずにその他の道を選択できる方途も有ったのでしょうけれども、私は、神の導きに従って生きたので、長い間生き延びることを許されました。神のおかげをもって、健康な肉体が与えられたのです。

けれども、最後には、その肉体も風化して消えていくということが起きて、肉体もこの世から消えていきました。

老子の神は、80年ほどしか肉体は動かなかった、と言われましたが、武内宿禰の神は、二百数十年も肉体が生存して動いたのですか?

増田に伝えます。
私は、肉体を動かさなければいけない役割だったので、動いたのです。老子は、思索を伝える役割でしたから、肉体を動かす必要は有りませんでした。
単なる役割の違いと言えます。

$潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 通りすがり
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

武内宿禰(たけのうちのすくね)は、なぜ300年以上も生きたのか―1

老子の神は、肉体を持って生きたとき、人としての行動はほぼ80数年であったとおっしゃった。しかし、我が祖先・武内宿禰に関する言い伝えでは、下記のように永く肉体も動いて何代もの天皇に仕えたようだ。

12代 景行天皇
13代 成務天皇
14代 仲哀天皇
    神功皇后
15代 応神天皇
16代 仁徳天皇    在官 計240余年

生きているだけでも不可能に近い上、何故そんなに永く肉体動かすことが出来、
活躍できたのか、ご本人いや、ご本神に聞いてみた。

肉体を長く持たせても良いという、宿命の命を頂きました。
神の言われるとおりの導きに従ったが故に、その命を全うして生きることを許されました。
私は、360余年生きた証として歴史に残る偉業を受け持ちました。

けれども、私自身がなしえたこと、というよりもむしろ、神の導きに従って、役割を果たした結果、長く生き延びたというだけのことです。あなた方もすでに感じているように、矛盾に充ちたこと、例えば、我々が行った朝鮮征伐のようなことでも、神の導きにしたがって、神の意向に従って、行動した結果、長く命を与えられた訳です。

$潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 通りすがり
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

老子の神は続けます。

私が、日之本元極の存在の土台のところを積み上げたということをとても喜びにしています。

そして、あなたがたが、より発展させて、近代的な現代の状況に合うように、進化させてきたこと、作り替えてくれたことは、嬉しく思っています。そして、神の要求に沿って、終末の世を綱渡りのような生活を強いられていることは、現代という時代が総てにおいてスピードアップされ、流されていっている事を考えれば、やむを得ないことかも知れません。

私の時代には、もっと、ゆったりと時が流れてきました。けれども、あなたがたの時の流れは、とても細切れで速く、次から次に課題が与えられていて、めまぐるしい限りです。

孔子や孟子は、私が、神の言葉や魂の導きを受けた言葉を伝えて、論を説いてきました。彼らは、それを具体的に書物としてまとめ上げるという功績を残しました。

論を説くのは、私です。それを文章にして整えていくのが、彼らです。
論を諭したことをまとめて、書物として、規律正しく整理してくれたのが彼らです。もちろん彼らは、彼らとして「説」を持ってはいましたが、わたしの説も取り入れて、記録を残してくれたわけです。

あなたがたは、わたしのように、長い時間を生きる時間を与えられてはいませんが、もっと、凝縮した短い期間にいろんな事をしなければ行けない運命です。
いずれにしても、きわめて重要な役割を与えられていることを言及しておきます。

日之本元極功法の敷衍(ふえん)は、人類の発展に繋がっていきます。
あなた方の活躍と、人々の元極功法への目覚め、修錬の継続を願っています。

$潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

五斗米道の張陵(34?~179?)や、新天師道の寇謙之(363~448)が道教を発展させたのであるが、その指導は老子の神によるものが大きい。そこで、老子の神に次のような質問をしてみた。

「老子の神へ いつごろ活躍されたのですか?」
その回答は、

孔子(BC.551~BC.479)が生まれる前から生き、孟子(BC.372~BC.289)が死ぬ頃まで、生きていたことになります(この間262年間)。

「それでは、何年生きていらしたのですか?」

生きていたのは、358年間。最後は、風のように消えてしまいました。
日本で言うならば、長寿で有名な武内宿禰(364年間生きたと言われる)とほぼ同じ位、生きました。
彼の後胤(こういん)の一人が貴方(増田)にあたります。
彼も、私も、肉体を残さず罷(まか)りました。(尸解仙=しかいせん という)

その間、肉体があったというだけで、ただただ、風のような存在でした。 人として活躍したのは、やはり80年ほど。 その後は、ほとんど老衰生活のような状態です。

肉体は、どんどん老化をしていきましたけれども、精神はより高度に発達していきました。判断力は、ますます研ぎ澄まされ、魂からの導きを受け、多くの情報を得て、更に神からの導きも受け入れることが出来ました。(この自らの魂の声を聞く方法が、日之本元極の「声聞法」と「声聞遊歩功」である。)

貴方の知っている普善禅師の最後もそういう状態だったと思います。

人が、360年生きるとは言いますけれど、肉体上の老化は、いかんともし難く進んでいきます。けれども肉体を維持して、生命を保ち続けることは、条件が満たされれば可能だといえます。

$潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その7)

 (6) 楼観道の起こり
 古楼観台は、今の陜西省西安市の南にある終南山の山麓の北にあり、周の時代には関尹子の邸宅だったと伝えられている。《漢書・芸文志》によると、関尹は「名を喜といい、関所の官吏だったが、老子が関を過ぎると、喜は官吏をやめてこれに従った」と注釈してある。後世の仙伝では彼を関令尹喜と呼んでいる。関隴の士族天水の尹氏は関尹子をうらやみ、道教を信奉したその子弟のほとんどが楼観に住み、尹喜の子孫であると称した。魏・晋の神仙道教の道士梁堪は楼観に住んで修行し、鄭法師と仙人の尹軌(山西省太原の人、武当山の神仙道士)から神仙方術を伝授され、晋の元帝大光元年(318年)に仙去した。その弟子の王嘉は、字を子年といい、陜西安陽の人だった。彼は著名な道士であり、苻堅と姚萇に非常に礼遇され、《拾遺記》や《牽三歌讖》を著した。王嘉は孫徹に伝え、孫徹は馬倹に伝え、楼観道団を形成した。北魏の太武帝の時、楼観道は次第に盛んになった。その中の優れた道士には尹通、その甥の尹法興、弟子の牛文侯、王道義などがいた。彼らは楼観に住み、道教経典を購入し、不動産を増やし、広く功徳を施し教団を拡大した。魏の孝文帝の時、王道義弟子の陳宝熾は、常に《上清大洞真経》を読み、未兆先知の術(予知能力)を持っていた。その弟子の李順興・侯楷および侯楷の弟子の厳達も優れた術を持ち、一時期名を馳せた。北周の武帝の宇文が仏教と道教を廃止した時、特に厳達・王延・蘇道標・程法明・周化生・王真微・史道楽・于長文・張法成・伏道崇の十人を招き、通道観に入らせ修道させた。世間では彼らのことを「田谷十老」と呼んだ。隋・唐の時代には、楼観道はさらに勢いが盛んになった。

 楼観道の道士は太上老君を尊び、尹喜を慕い、《道徳経》・《老子西昇経》などを研究した。それは、神仙道教と北方新天師道が結び付いたものだった。その後、南方の陸修静や陶弘景の経派の道法が華山の陸景・焦曠・韋節などの道士によって楼観に伝わり、楼観の道士の王延も華山で修行をしたので、南北朝時代後期の楼観派の道法は南北の道教が融合していた。楼観の道士は《老子》・《荘子》・《列子》・《周易》を研究していただけでなく、上清経法も修めていた。楼観道は隋・唐にも盛んに伝えられ、宋代まで伝承されていた。


潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その6)

 (5) 南北朝時代の仏教と道教の争い
 南北朝時代は、中国の伝統文化の中に儒教・道教・仏教の三教が鼎立するという文化構造が次第に確定した時代である。この構造が形成される過程で、内外の文化が激しく対立した。南北朝時代には仏教経典が大量に中国語に翻訳され、寺院は日増しに経済力を増し、僧侶は国内のどこにでもいた。その勢力は道教を超え、神仙方術や玄学といった外套を脱ぎ捨て、独立した正統な文化地位を奪取した。三教の争いは、最初は儒教と仏教の間で展開した。たとえば劉宋の元嘉九年(432年)には、天文家・数学家が《報応問》によって仏教の因果応報説を批判すると、仏教徒は《答何衡陽書》を著して弁解した。この種の争いは鬼神の有無や応報の虚実からだんだんと死後の霊魂の有無つまり精神と肉体の関係へとエスカレートしていき、梁代には範糸真が《神滅論》を著して争うまでになった。仏教がはじめて中国に入った時、布教の必要性から、老は関を出て西へ去り「その終わるところ知るなし」という司馬遷の《史記・老子伝》の記述をもとに、老子は西方で「インドに入りブッダになった」という説が作られた。そのために仏教は中国文化と同じものであると認められたのである。後には《老子化胡経》(西晋の道士王浮の作であると伝えられている)が世に出た。その説によるとブッダが西方でインド人の仏となった老子や関尹子の弟子であると見なしている。南北朝以降、仏教徒は《老子化胡経》の真偽を巡ってに度々議論を繰り返して道教を攻撃し、2つの宗教の優劣を論争した。道教徒も儒教と連合し、「夷夏の辯[中国と異国の言い争い]」や沙門は王者を敬うべきか否かなどの問題を出して仏教を排斥した。仏教は極力中国の国家権力に従属し、「忠孝」の倫理観念を受け入れ、次第に中国化していった。

 南朝の宋斉の頃には有名な道士の顧歓が《夷夏論》を著し、道教を聖教であるとして褒め讃えたが仏教を戎法としてけなしたので、仏教徒から集中的に非難を受けた。その後も南斉の士族張融の名を借りて《三破論》を著した道士があり、仏教には礼教の倫理に合わないところがあるので「国に入って国を破り、家に入って家を破り、身に入って身を破る」と述べた。また、「老子化胡説」を根拠にして、老子は「胡人が粗野なので、その悪の種を断とうと考え、男に妻を娶らせず、女は夫に嫁がせず、一国に法を伏し、自然に滅びるようにした」と述べて仏教を侮辱した。仏教徒も《老子大権菩薩経》・《清浄法行経》など少なからず経典を偽造して道教と儒教を陥れようとし、「ブッダが3人の弟子を中国に派遣して教化したという説」を作り出した。その説によると、「摩訶迦叶、彼は老子と称した」と言い、儒童菩薩はすなわち孔丘、光浄菩薩は顔淵である。三教のののしり合いの言葉はどんどん劣悪になったが、三教を調和させようという考えも次第に起こってきた。梁の武帝蕭衍は天子の位を譲り受けた心理的なプレッシャーを取り除くために仏教によって罪業を除こうとしたので、仏教は南朝で盛んになり、三教を融和しようという動きも盛んになった。天台宗の三祖慧思禅師が著したといわれる《誓願文》には、「諸々の賢聖に私を補佐してくださいと願い、好芝草や神丹を得た」、「外丹の力を借りて内丹を修め、衆生を安らかにしようと思いまず自分が安らかになる」と述べてある。これは仏教に道教が引用された例である。陶弘景は「かって夢で仏がその菩提を記して授け、名を勝力菩薩と為し」、「五大戒を誓い授かった」し、浄土宗の始祖の曇鸞は道術を授かった。これらは仏教と道教の両方を修行していた例である。

 北朝の仏教と道教の争いは、南朝の文章による言い争いとは違ってそこに皇帝の利害関係もからみ、仏教あるいは道教の弾圧という形になった。前に述べた魏の太武帝の仏教の弾圧のほかにも、北周の武帝宇文が仏教と道教の両方を弾圧した。北周の武帝は国をよく治めることに尽力した名君であり、道教・儒教を信奉したが仏教は好まなかった。当時、仏教の経済力は大きく膨らみ、僧侶や寺の小作人はどこにでもいて、寺廟は州都のあちこちにあり、国家の財政にも影響を及ぼしていた。そこで、北周の武帝は何度も三教に論争させて三教の優劣を定めさせ、仏教を廃止するための世論を作った。甄鸞は《笑道論》によって道教をけなし、道安は《二教論》を書いて仏教を崇めて道教を抑えた。道士も《道笑論》を書いてこれに対抗した。何年かの論争を経て、建徳三年(574年)に武帝はやむをえず仏教と道教の両方を廃止する命令を出した。沙門・道士は還俗させ、「三宝福財は臣下に分け与え、寺観塔廟は王公に賜った」。ほどなくして、皇帝の命令によって通道観が建てられ、道士・僧侶を選抜して観に入らせ、《老子》・《荘子》・《周易》を研究させた。通道観に入った道士・僧侶は通道観学士と呼ばれた。また、通道観の道士の助力によって、《無上秘要》という道書が書かれた。これは道教史の中では重要なもので、総合的な道教の類書である。

漢代の司馬遷の著した《史記》では、関を出て西へ去り「その終わるところ知るなし」とある。《老子道徳経》を著したこと以外にはっきりした経歴はわからないが、後世には多くの伝説で粉飾された。
   
道教でも重視される《老子道徳経》は、彼の申し出に応じて老子が著したものである。老子同様、実像については全く不明であるが、《列仙伝》などによれば、老子に従って西方へ去ったといわれる。

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国

写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その5)

 (4) 陶弘景の創立した茅山宗
 陶弘景(456~536年)は、字を通明といい、丹陽秣陵(今の江蘇省南京)の人で、士族詩書の家に生まれた。若いときから道術を好み、孫游岳に師事した。官吏などの職務は得意ではなかったので句曲山(今の江蘇省茅山)に隠れ住み、自ら華陽隠居と号し、弟子を率いて華陽館を建てた。王朝が斉から梁に交代した時、陶弘景は弟子を派遣して蕭衍を助け、図讖を推薦して国号を選定した。絶えず梁の武帝蕭衍と文章をやり取りしていたので、当時の人々は彼を「山中宰相」と呼んだ。朝廷の王侯公卿といった名士の中でも徐勉・江淹・沈約・蕭子雲といった多くの人が陶弘景の門下に入り、一時期非常に名声を博した。陶弘景は多才多芸で、天文・歴算・医薬・金丹・経学・地理・博物・文学芸術に精通し、80種余りを著述した。その中で現存している《真誥》・《登真隠訣》・《真霊位業図》・《養生延命録》・《本草集注》・《補闕肘後百一方》・《華陽陶隠居集》などは、どれも道教史や科学技術史にとって重要な著作である。陶弘景は茅山に45年間隠居し、門弟も多かったが、81歳で世を去った。おくりなは貞白先生である。

 陶弘景が道教の歴史において最も大きく貢献をしたことは、上清の経を伝承し茅山宗を創立したことである。彼が著した《真誥》は、顧歓の《真跡経》をもとに楊羲・許謐の伝える上清の秘訣を整理したものである。これは上清派の歴史・方術・教義を記述した重要な著作である。《登真隠訣》は《上清経》の符・存思・内視・導引・服気といったさまざまな昇仙の法を記述している。茅山は、漢代には三茅真君(茅盈・茅固・茅衷)が仙道を修行したことで有名になり、六朝時代には神仙道教の聖地になった。陶弘景は弟子を率い、七年の年月をかけて堤防を修理し田畑を開墾して茅山を切り開き、道館を建設して上清派の道教教団を設立した。これによって茅山宗は上清派の中心になり、南北朝から隋・唐に至るまで、茅山派からは有力な人が出て、道教史に大きな影響を与えた。茅山上清派は基本的には知識人によって組織された道教教団で、個人の文化修養や経典の研修を重視した。その道士の多くは詩を作ったり書道に励み、文才があった。茅山上清派は経派道教の中で最も優れたものに属し、有名な道士が比較的多く出た。

 陶弘景は博学多才で、詩詞文章・棋琴書画・養生医薬・金丹冶煉・卜筮占候などで精通していないものは一つもなかった。彼の《養生延命録》は道教養生学の養神・煉形・行気・房中術など多くの方法を総括している。医薬学では薬物の品種(玉石・草木・虫獣・果・菜・米・実など)による分類方法を考え出し、道教医薬学の体系を充実させた。特に、彼は葛洪の後を継いで金丹派道教も発展させ、硝石(KNO3)の炎による鑑別方法を提案している。

 陶弘景は《真霊位業図》を著して道教の神仙の体系も整理し、元始天尊を頂点とする神仙の階級序列を確立した。道教の最高神(元始天尊)の確定と神仙の系譜の階級による序列は、道教が封建の階級制度を擁護する必然性を反映したもので、道教の神学が成熟した印である。南朝の道教は、陸修静や陶弘景の改革によって内容的にも形式的にも成熟し、教会式の宮観道教へ変化した。

漢代に茅山で仙道を修行し、神仙に成ったといわれる。のち、晋代に彼らを含む神仙たちが霊媒師の楊羲に降ったことから茅山派が始まったといわれる。

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その4)

2、仏教の宗教形態を取り入れ、道教の戒規科儀を制定した。
 仏教は非常に整った宗教形態を持つ宗教であり、中国の民族宗教に対して一つの模範を示した。中国道教がその宗教性を向上させていくには、仏教の宗教形態を取り入れ漢民族の文化に適合させなければならなかったが、この過程は南北朝の時代に完成した。陸修静は《霊宝経》の中に仏教の三世輪廻・因果応報の説を取り入れ、徳を積み善を行うことや世の中の人々を救うことを強調した。《霊宝度人経》などの多くの道書に因縁業報・輪廻五道・天堂[天国]地獄などが書かれ、多くの仏教用語が取り入れられた。そのほか、《老君説一百八十戒》および五戒・八戒・二十七戒などは仏教の戒律とも似通っている。経典によって元始天尊あるいは太上老君が説法しているが、戒律の内容は儒家の「三綱五常」などの礼教規範と一致している。世の中の人々に善を勧めるという社会倫理思想がはっきり現れてきたことは中国の道教思想の大きな変化であり、道教が次第に成熟していった印である。また、陸修静は道教に多くの斎儀式を制定し、道教の科儀を充実させた。陸修静は斎儀によって道士の身・口・心の「三業」をコントロールすることを考えた。彼は、身で礼拝し、口で経を読み、心で神を思い、身・口・心をすべて道に帰すことができれば、内外に侵略者が入り込むことはないと考えた。彼は天師道・上清・霊宝の諸派の斎法を総合した。霊宝斎の「有為」を主旨とする金・黄・明真・三元・八節・自然などの斎法に、三皇斎・指教斎・塗炭斎法などの古い斎法と無為を主旨とする上清斎の坐忘・心斎の二法を加え、「九斎十二法」と称した。かくして、斎儀は道士の伝経受戒や日常の修行、祭日の課業となり、彼らが社会の中で祈祷したり済度する法事や布教するための宗教活動ともなった。道教の宗教活動が規範化したことは明らかに道教が成熟していった印である。

 3、経派道教を改革・融合し、道館制度を発展させた。
 陸修静の時代には、南朝の天師道の祭酒制度も北朝と同じように非常に混乱していた。陸修静は一度は《陸先生道門科略》を著し、三張の旧法によって天師道を整理しようとしたが、あまり効果は上がらなかった。その後、彼は朝廷の崇虚館に身を置き、全国の道教の指導者の立場になった。彼は南朝の孫恩の反乱が失敗に終わったことで民間天師道が衰退し、士族の神仙道教の天師道が発展した事実や、符道教に属する天師道の特性を考え合わせ、彼自身の威信や著述によって上層の天師道と南方で盛んに伝えられた経派道教(三皇派・霊宝派・上清派)を一つに融合させた。また、修行の順序を区分し、体系だった段階に従って修行する経派道教を生み出した。この陸修静の道教の改革は道教の歴史の中で大事なことであるが、先人たちはこのことについてほとんど論述していない。陸修静の改革以降、天師道はその経から正一派(張道陵の《正一盟威》という道書に由来する)の経派道教に区分され、その派内に正一弟子(あるいは盟威弟子)・正一道士・正一法師(もとの天師道の祭酒)などの階級が設けられた。正一派は経派道教の中では最も低い位置に置かれた。道教に入門すると、最初に正一弟子となって正一派の経を受け、それから順々に三皇弟子・霊宝弟子となり、最後に最も高度な上清派の経を授かった。陸修静の修行する斎儀は、正一派の指教斎・塗炭斎に三皇斎・霊宝斎・上清斎を融合させ、階層的に区別している。三洞経を融合し体系だててクラス分けしたことは後世の道教に大きな影響を与えた。この改革は唐代の道階や経の授受制度、あるいは明代に正一派が三山符(竜虎山正一派・茅山上清派・閤 山霊宝派)を統一していく手本になった。そのほか、陸修静は南朝の士族の天師道が静室や道館を設けて宗教活動を行っていた現状を踏まえ、道館制度を推し進めて宗教の組織形態を成熟させた。この道館は昔の天師道の道治とは違い、その経済的な財源は信徒から集める米ではなく、官僚貴族の布施、朝廷からの勅賜や免役、直轄の田畑や建物などによった。道士は道階に従って道館内で宗教活動を行ったが、これは仏教の寺院制度とほぼ同じものだった。このようにして、教会式の宮観道教が形成されていった。

 陸修静は崇虚館を主宰していた時、朝廷から非常に尊敬されていた。また泰始七年(471年)に明帝のために三元露斎を建てると、堂の前に黄気が天に昇り、明帝の病気が癒えたので、大変な吉祥であると思われた。「先生は大いに法門を開き、奥深いものを取り扱い、朝廷も在野も気を配り、道士も世俗も帰心する。道教は興こり、ここで盛んになった」と言われ、道教の盛況ぶりは大変なものだった。陸修静は元徽五年(477年)に世を去った。おくりなは「簡寂先生」である。その有名な弟子には、孫游岳・李果之などがいた。南朝の優れた道士には、顧歓・孟景翼・宋文明・伯玉・劉法先などがいて、みんな道教の発展に貢献した。その中で最も有名な者は孫游岳の弟子の陶弘景である。

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その3)

 (3) 陸修静が道教を広める
 陸修静(406~477年)は、字を元徳といい、呉興東遷(今の浙江省呉興)の人であり、江南の著名な士族の呉郡の陸氏の出身で、東呉の丞相の陸凱の子孫である。神仙道教をあまり慕わなかったが、真面目に修行を積んでいた。名山仙洞を訪ね歩き、道書を捜し求め、元嘉の終わり(453年)には宋の文帝に招かれ、評判になったが、のちに朝廷の動乱によって廬山へ去り、隠居して修行した。宋の明帝泰始三年(467年)には再び皇帝の命令を受けて崇虚館で道書を整理し道教を広めた。陸修静は葛洪以来の道教学者であり、一生の間に多くの著述を残し、道教の発展に非常に貢献した。

 1、三洞経書を総括し、道教典籍を整理した。
 晋宋の頃には、三皇派・霊宝派・上清派の経典が増加し、真作と偽作が入り混じり、その優劣も様々だった。道教の歴史を考察してみると、仏教の影響によって道教が発展したということがよくある。東晋南北朝の道士たちが盛んに道教経典を著したのも、その当時、仏教経典がどんどん翻訳されていったことと関係がある(梁の武帝の時に翻訳された仏教経典はすでに5400巻に達していた)。道教経典は急激に増え、早急にそれらを整理する必要があった。陸修静は崇虚館に留まっている間に朝廷の収蔵する楊羲・許謐による《上清経》を手に入れ、《三皇経》・《霊宝経》の道書も収集した。彼は、最初にそれを三洞(洞真部・洞玄部・洞神部)に分類し、「三洞の弟子」と自称して《三洞経書目録》を編纂した。陸修静は洞真上清経・洞玄霊宝経・洞神三皇経の源流を考察し、文章を添削して条理を選別しただけでなく、経典の伝授の仕方も完成させ、それによって道教の宗教性を向上させた。梁のはじめに、孟智周法師が顕した《玉緯七部経書目》は陸修静の道書の分類方法を継承し、三洞のほかに四輔(太玄部輔洞真・太平部輔洞玄・太清部輔洞神・正一部総輔三洞)を加え、道書を「三洞四輔十二類」に分類している。その分類方法は、現在でも用いられている。道書の整理と分類は道教の歴史の中では大事なことであり、道教の発展に大きく影響した。

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その2)

 (2) 魏の太武帝の滅仏と北方天師道の衰退
 道教が盛んになると、仏教との対立が激しくなった。もともと仏教は中国では方仙道の神仙の学を借りて布教していた。魏・晋や南北朝の時代には、北方の仏教は神仙道教に付き従い、南方の仏教は玄学に付き従っていた。仏図澄などは教えを伝える一方で、咒を唱えて鬼を駆ることもでき、法術占験を行って神僧と号していたので、実際には神仙道士と同じようなものだった。その後、仏教経典が大量に翻訳され、各地に高僧が増えていくと、次第に仏教の本来のありようが人々に知られるようになった。北方に五胡が入り乱れると、仏教は少数民族にも伝えられた。後趙の時には、石虎が仏図澄に心酔し、積極的に仏教を推奨したので、多くの漢人が出家し、寺院が国内のあちこちに建てられた。石虎などの少数民族の国主が仏教を信奉したのは、仏教を借りて漢文化に対抗しようという心理があったからでもある。彼らは「朕はもともと漢人ではないし、仏は漢人の神ではない」と考えていたので、仏を崇めるようになったのも自然な成り行きだった。仏教が盛んになると、それは北方で漢文化を代表する儒学の世家のねたみを買うこととなった。崔浩は儒学の士族の出身でったので、仏教のような優れた異文化を非常に憎悪した。魏の太武帝拓跋ははじめは仏教を悪くは思っていなかった。しかし、のちに寇謙之と崔浩に影響されて誠実に道教を信奉するようになり、また北方を統一する戦争では割拠政権を助ける僧侶と何度も敵対したので、次第に仏教を嫌悪するようになった。崔浩は機会をつかんで仏教を滅ぼすよう太武帝をそそのかし、太武帝は太平真君七年(446年)に仏教を滅ぼせという命令を下した。魏の太武帝は中原の支配者となるために、漢文化を崇め、鮮卑族が黄帝の正当な子孫であると考えるようになった。彼が、「朕は異民族ではなく、異民族の神を事としない」と天下にアピールするために仏教を滅ぼそうとしたことも自然な成り行きだった。

 仏教を弾圧したことは仏教を信奉する鮮卑の貴族の反発を招き、拓跋氏の政権内部の対立が激しくなった。寇謙之は僧侶を虐殺することには賛成しなかった。彼は死ぬ前に天師道がやがて政治闘争のあおりで衰退していくことを予測していた。寇謙之の死後、崔浩は鮮卑の貴族の反発から死刑にされた。ほどなく、西暦452年には太武帝も殺された。後世の皇帝はみんな才知があり仏教を信奉したので、天師道は衰退していった。特に北斉の文宣帝高洋の時には、天保六年(555年)に道教を廃止する命令が下され、寇謙之の天師道教団は断絶してしまった。

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,サイバーショット携帯S001 サイキック写真-日之本元極 気功 中国
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね

ペタしてねペタしてねペタしてねペタしてね